も最上内近蔵い伊能敬ま間宮蔵し四郎府ふ田清だ候きかい上問こがみこんどう のうみやこうとくないじゅうぞうただたかりんぞうまつうらたけさいこうろうもんくろきよたかせいじょう116北海道へ来た主なたんけん家 徳藤 重 忠 林隆を中心に開たくの計画わっていや土そのころえぞ地の様子は,よくわかっていませんでした。そこで様子を調べるために,たんけん家たちが何度もやってきました。開たく使の役人,黒が立てられ,アイヌの人たちが住んでいた島は,本州などからきた人々によって大きく変くことになりました。清隆は,北海道と気地の様子がにているアメリカを手本に開たくを進めようと考え,外国人の指どう者をまねきました。 松浦武えぞ地を6回もくわしくたんけんし,新得にもやってきました。 黒田清隆1874(明治7)年から1882(明治15)年までの9年間,北海道開たくの最高指どう者として北海道の発てんにつくした。外国人指どう者が行った仕事ケプロン~開たく使最高顧ワーフィールド~北海道地図づくりライマン~こう山の発見クロフォード~鉄道けんせつダン~らく農の指どう者もの外国人のぎしや先生が北は,えぞ地の守りをかため,開たくを(3)北海道の開たくえぞ地から北海道へ 北海道の開たくはどのようにして始まったのでしょう。 江戸時代の終わりころ,ロシアなどの外国船がえぞ地へやってくるようになりました。 明治時代になると,政進めるために,「開たく使」という役所をおきました。また,えぞ地というよび名を「北海道」とあらためました。「外国人の指どう者から,開たくのしかた,炭こう,鉄道,アメリカ式の農業など,たくさんのことを学んだよ。」「ケプロンの年しゅうは今のお金で1おく円! 外国人をよぶにも,すごくお金がかかったのね。」 70人以海道にやって来ました。
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